正圓寺はもともと浪ノ上熊野神社の隣にありました。江戸時代の初期に現在の場所に移転し、現在の系譜となりました。

江戸時代の初め、昔から伝わってきたことを基に、正圓寺二世の円水祖元禅師が寺譜を書き記しました。以下がその要約です。

大宝2年(702年)の冬、持統上皇が豊川を通りかかった時、遠くの崖の上から瑠璃色の光がさして神が現れ、上皇に告げました。
「この土地はとても良いところである。私はここで霊材を長い間大切に保存していた」
上皇は、利修聖者に薬師如来の像を刻ませました。一説には、鳳来寺山の薬師如来と同じ材で刻んだともいわれます。
村人たちは、草堂を立ててこの仏様をおまつりし、国家鎮護の道場としました。すると、近くの深い淵に潜んでいた龍神が夜な夜な灯火を捧げるようになりました。

聖武天皇の時代、行基がこの地に来た時に薬師如来の右ひじが欠けていたのを補修しました。

延暦20年(801年)、通りかかった征夷大将軍坂上田村麻呂が聖材を見つけました。その聖材を空海に授けたところ、空海は自ら願主となって地蔵菩薩を彫刻しました。この地蔵菩薩は、霊験あらたかで、子安地蔵・痘(いもやみ)地蔵・瘡(かさ)地蔵・鎮火地蔵など、いろいろな名前で呼ばれています。

この時密教の僧がこの寺を神鎮山瑠璃光院、社を熊野三所権現楉江神と呼ぶようになりました。

文明年間(1470年代)、田原に基盤を置く武将戸田宗光が二連木に城を築き、楉江村(現在の浪ノ上)を別荘を建てて寺を造って荘園寺と名付け、草堂にあった古仏を移し安置しました。戸田氏は隠居後別荘に住み、荘園寺を菩提寺としました。

延宝年間(1673年頃)、戸田種長がお堂を再建して正圓寺と名を改め、京都の妙心寺の直末となりました。

正圓寺の本尊薬師如来、豊橋市の文化財となっている地蔵菩薩像はともに平安時代末期から鎌倉時代初期の頃ではないかと言われているので、上記の寺譜との整合性はありませんが、一千年にも及ぶそれぞれの時代の中で、薬師如来、地蔵菩薩の二尊像が地域の人々の心身を癒し、支え続けてきたことは確かな事でしょう。